祝津の
歴史語り

祝津の歴史語り

祝津の遺跡からは獣の骨も発掘されている。

祝津の起源はさらに古く

アイヌ人の前は縄文人が住んでいたといわれています。海岸に住んだのは海の獲物だけではなく、山にもたくさんの獲物があったからです。

荒れ狂う日本海が大胆に描かれています。

女人禁制の地として

和人が蝦夷地の開拓を進める上で積丹半島は大きな要衝であったといわれています。荒れ狂う日本海には多くの魔物が住んでいたといわれ各地にその伝説が残っています。

白龍さんには若い女性が生贄に

今年は辰年。そこで・・・

祝津には赤岩山に伝わる白龍伝説があります。詳しくは祝津の長老に聞くか、出張番屋(公開は5月頃の予定)で。

今はほとんど採れない幻のさかなです。

ハッカクは龍の化身

祝津の海には龍にそっくりの魚(ハッカク)が住んでいます。以前は食用にしませんでしたが、今は小樽の名物。墨彩画ではオスの雄姿を描いています。
どうですか?まさに今年の干支、龍そのものですね。

祝津はアイヌ語でギョジャニンニクのある場所の意

祝津の歴史、楽しく伝えます。

祝津在住の墨彩画家鈴木京子さんの作品に「祝津物語」があり、おたる祝津にしん祭り、中出張番屋でも公開したことがあります。鈴木さんは祝津に住み、ご両親や古老の話などを参考に制作、祝津住民は「竜泉寺」で鑑賞することができ、祝津の成り立ちから鰊漁時代までを47枚の作品にしています。ホームページから皆さまにその一部をご紹介させていただきます。ゆったりとした祝津の昔話をご堪能ください。

鈴木京子さんの受賞歴は下段に表示のPDFファイルをご覧下さい。

祝津で獲れる豊富な魚を食べていた。
恵美須神社社殿

歴史建築(その一)恵美須神社社殿

恵美須神社の創立は、江戸時代の安政3(1856)年と伝えられています。今から150年以上も前になります。そのころは祝津がにしん漁で栄え、漁の安全と大漁を祈願したのでしょう。
現在の本殿が建てられたのは、創立から7年後の文久3(1863)年です。これは上棟式に掲げられた棟札に由来とともに記載されています。小樽市指定歴史的建造物の中で最も歴史ある建物(第58号、平成6年指定)になっています。
境内の位置は、茨木家中出張番屋の脇から細く曲がりくねった参道を上ったところにあります。敷地には市指定の保存樹木であるイチイとクワ(北海道最大のヤマグワでは と言われています)があり、真正面に見える建物は礼拝のための拝殿で、その後方に幣殿と本殿が続いています。しかし、本殿は覆屋によって保護されているので外からは屋根しか見られません。拝殿や幣殿・覆屋は、昭和3年から5年にかけての建築です。
本殿の大きさは正面と側面ともに柱の間隔が1つであり、屋根は前方へなだらかに傾斜しています。この形式の社殿は「一間社流造」と呼ばれ、北海道では道南から日本海沿岸にかけて多く見られます。元来は京都の上賀茂と下鴨の神社 (賀茂別雷神社、賀茂御祖神社)の社殿に取り入れられた形式です。

旧青山別邸

歴史建築(その二)旧青山別邸

旧青山別邸は、二代目当主・青山政吉によって大正6年より6年半の歳月をかけて建てられました。装飾性に富む小樽随一のにしん漁家の住宅です。
山形県遊佐町青塚から祝津へ渡った初代の青山留吉は、雇漁夫から身を起こした人物で、漁場の権利を得てにしん漁で財を成し、政吉に家督を引き継いだ後郷里で余生を送りました。
別邸の建設は大正6年に始まり6年半の歳月をかけて念入りにおこないました。棟梁は郷里から斎藤子之助を呼び寄せ、彼を支えたのも同郷の石垣清治郎と土門市太郎であり、建物の配置や間取りは遊佐にある青山本家の住宅に似せて建てたことが判明しています (御船達雄博士の研究による) 。
この住宅が別邸と呼ばれるのは、本邸にあたる青山家元場がすでに海岸沿いに建っていたためです。元場は明治20年ころに建築されましてたが大正8年の大火で類焼し、その後再建されました。現在、元場の住宅や蔵、倉庫などからなる建物群は北海道開拓の村(札幌市厚別区)に移築保存され(昭和55年解体、平成2年復原)、主人の住居と漁夫のすまいが一体となった雄大な住宅の様子も再現されています。祝津に建っていた時の広い敷地は、海岸沿いの道道小樽海岸公園線の山側(祝津3丁目105番地)にあります。
さて、別邸の建物の構成は、中心となるのが母家の主屋であり、それに続く2階建のはなれ、さらに前庭をはさんで建つ文書蔵からなります。母屋の正面は南を向き、玄関は東側に客用と西側に家族用を構え、客用の玄関脇には建物の中で唯一接客のための西洋間を設けています。座敷の配置は2列にそれぞれ4室が並ぶ八間取りになっています。 その中で最も格式の高い座敷は奥列の東端に位置する12畳間で床、棚、付け書院を備えています。
青山別邸は贅をつくした北海道を代表するにしん漁家であり、昭和60年には小樽市景観条例にもとづいて小樽市指定歴史的建造物第 3号に指定され、さらに平成9年には第10回小樽市都市景観賞を受賞、保存と整備の状態もよいことから、盛時の祝津における網元の暮らしぶりが堪能できます(建物内部は、通年一般公開しております)。

白鳥永作番屋

歴史建築(その三)白鳥永作番屋

この白鳥家番屋は明治10年代に建てられ、当時から祝津を代表する建物でした。明治20年に発行された「後志国盛業図録」には銅版画で建物が紹介されています。創建してからおよそ130年になります。
番屋の使われ方は、親方の住まいと漁夫の居住部分に別れ、玄関も正面に向かって左(南側)を親方用、右(北側)を漁夫用に分けていました。親方の生活部分は座敷になっていますが、漁夫の部分は土間のまわりに寝床があり、天井がなく屋根裏まで吹き抜けになっています。
1994年秋、この建物を取り壊す計画が起こり、日本建築学会の有志は保存の要望書を小樽市へ提出し、さらに当時小樽在住の篤志家は建物の歴史とその価値を理解して自ら買い取り、料理店に転用したのです。もしもあの時、白鳥家番屋を簡単に取り壊していたら、祝津では建物の大切さを考えずに解体する風潮が強まり、今のように漁場建築は残っていなかったかも知れません。
白鳥家番屋は、明治に建てられた時から現在にいたるまで、祝津の歴史を刻む貴重な建物なのです。
小樽市指定歴史的建造物第62号 に1995年指定され、1996年には 「郷土料理 群来陣」 として小樽市都市景観賞 を受賞(当時は、郷土料理店「群来陣」として活用されていました)しております。

ライトアップされた田中家番屋 (小樽市鰊御殿)

歴史建築(その四)田中家番屋 (小樽市鰊御殿)

鰊御殿 (ニシン漁場建築)は祝津の小高い丘に建ち、地域のシンボルになっています。本来、この建物は泊村照岸にあった田中福松の番屋であり、明治30年に津軽の大工菊地永弥によって建てられました。祝津へ移築したのは北海道随一の炭鉱会社であった北海道炭礦汽船です。昭和33年に同社が小樽市へ寄贈し、北海道有形文化財に指定されました。
正面41m、奥行13mの大規模なにしん番屋の室内は、正面右手が親方の住まい、左が漁夫溜の台所に分かれていました。親方の住まいの2階には客用の座敷もありました。現在、主要な居室は再現され、明治時代の番屋でのくらしを伝える貴重な建物になっています。
夏期には建物正面がライトアップされ、闇の中に幻想的な姿を浮き上がらせます。移築してから50年が経ち、すでに祝津になくてはならない大切な建物になっています。また、建物内部は、冬期間を除き一般公開しております。

祝津の印(家印)

小樽は歴史を有する「印」(しるし)が多くあり、商店や石造りの建造物や道具類に、または半纏などに「印」を付けて広告を兼ねて判別に用いていたようです。
漁師の人たちは自分の道具類、特に網には「アバ」と呼ばれる木板の浮きを付け、それに「印」を焼き印して、網が解けて流されて不明になっても、何処の誰の所有であるかわかるようにしていたそうです。また「印」は作業場や船、鰊を背負うモッコなどにもつけられていました。今でも祝津町内を歩くと古い石造倉庫の外壁の上部に、印をついているのを見つけることができます。中には長い間に、風雪にさらされて印の文字を読むことが難しいものもあり、歳月が流れ時代が移り変わると共に、石造りや他の建築物が徐々に減少して消えつつあります。
さらに、親子の代が何代も変わることによって、現存の子孫でも不明であることが少なくない状況です。「印」とは広辞苑(国語辞典)によりますと「印とは他と区別し、まぎれぬよう見分ける為の心覚えとするもの、目印、紋所、徽号の類」とあります。現在でも商店名などにかえて使用されています。範囲は広く、家号、家印、旗印などの総称で、その種類も多数に使用されております。

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